何の変哲もない日々への手紙

ラブレターです。

3年前のことを思いながら昨日の話をする。

来世は人間に生まれませんように。そう書いた油性マジックの黒色が手のひらにぼんやりにじむ。鍵がない引き戸に60㎝定規と適当な本とタオルを詰めてとりあえずは開かないようにし、クローゼットの取っ手にタコ糸を結んで首を通す。先程暴れてぐちゃぐちゃになった部屋を見る。主にプリントや本などの紙類が床に無造作に折り重なっておりああこれはあの時の授業のプリントだなとかあれは高校の時のものだったっかななどとぼうっと思う。

高校生のあのときも自分は部屋で物を投げた。物音がうるさいので案の定乗り込んできた父に怒鳴られるとああああああああああ!!!!!と泣き喚き出ていけと言いながらより過激に物にあたった。感情的に奇声を上げながらもどこか頭で、物にあたるというものは意外とすっきりしないものだなぁ。なぜこんなことをしているのだろう。なぜこんなことになっているのだろう。これは片付けるのが大変になりそうだ。娘がこんなで両親はさぞ気の毒だなぁ。と思っていて、理性を手放せずに暴れようとして暴れる自分を滑稽に思っていたことを覚えている。実際泣き喚いたところでどうしようもないことは分かっていたが何かを伝えたかったのかもしれない。複雑な感情をもう既に私という愚女を抱えてしんどくつらい親に単純な行動で伝えたかったというのなら気味が悪く勝手にも程がある。そもそも傍から見れば最近ほとんど会話もなかった娘が突然半狂乱で部屋を荒らしているだけなので、余計に嫌厭されるだけで成功するはずもない。

数日たった夜に、私はぐちゃぐちゃの部屋のまま暗いクローゼットの中、デスクライトのコードで首を吊っていた。皮肉にも私が部屋にいるのに物音が全くしないことを不審に思われて直ぐに見つかった。その時もどこか冷静に、やっぱこんなんで死ねなかったな。ドアが開かないようにしておけばよかったな。母親が目をかっぴらいて驚いているなぁ。とこれから色々と崩壊するであろう運命を悟り思った。ショックに濡れる母親のどうしたの?なんでなの?の問いには嗚咽とわからないで答えた。何をどう言うべきか誰にも分からなかったのか、普段はよく怒鳴る父親にも何も言われなかった。それから母親は数日間心療内科や病院に電話をかけるやうになるも、どこの病院にも「予約は半年から1年待ちです」と言われていたのを内心ほっとしながら部屋で聞いていた。とにかく私に金をかけてほしくなかった。病院も薬も無料じゃない。この頃は親の前で米を食べるのにも罪悪感があり。餓死について考えていた。数日後、親に連れられ予約不要という心療クリニックで鬱と診断され、その後躁鬱と診断された。1週間に1度、親に連れられ3分にも満たない問診と効きもしない薬で5千円もかかるのが苦痛で3か月も通えなかった。レジで私の薬代を払う親の姿を見る度に情けなさが込み上げ、そんな子供を持った親が惨めで死にたくなった。「薬を続ける事が大事」と医者は散々言っていたが、人生すら続けたくないのにこの医者は何を言っているんだろうと思っていた。薬でどうにかなる問題でもないだろと思ってもいた。確かに薬を飲むと辛くはない、しかしそれは「普通」という標準的な状態に近づくものではなく。思考そのものを鈍くさせ、頭がボーっとする感じなのだ。本を読んだり、勉強なんかがマジで全然できなくなる。目が滑り、文章を一文字一文字追うのが精一杯で、文章から情景をイメージするのに苦労する。

自分が状態異常になっていることは分かっていたので、鬱、躁鬱などの診断結果もやはりそうかぁという感想に止まった。

診断書を提出しなんとか高校を卒業できた。診断書というものに医者が5秒でサインすると3千円かかる事を知った。ボロい商売だなぁと思った。

時系列がぐちゃぐちゃになるが高校のスクールカウンセリングに行っていた時期もあった。登校せねばばならないが図書室の上の階にある狭い個室で、危害を加えてこない他人と他愛もない会話をするのは社会性を取り戻していく感じがして、気分が落ち着いた。母親は胡散臭いと嫌っていたがやたらと人を褒める喋り方や張り付けた笑顔がそう見えたのかもしれない。


私の状態は自殺未遂をしてから上がり下がりを繰り返しなからも徐々に回復に向かった。自殺未遂が一つの区切りになったように。

母親は私が自殺未遂をしてからというもの、当てられるように徐々に不安定になった。気丈な人であったが、不安定な部分もある人であった。私の状態と反比例するようだった。キッチンや部屋で座り込んで項垂れ、何も言わず動かず静かに涙と鼻水と涎を垂れ流していた。声をかけられることや触られることを拒み、ほっといて欲しがった。状態異常だと思った。病院に通うのは母親の方がいいのではと思ったが結局どこにも行こうとはしなかった。今では元に戻ったように見えるが単に気丈に振舞っているだけなのか私には分からない。

このころの私は母親が心配になり何かと手伝いをしたがった。心配もあるが気まずさからのものだった。恩を売るような私の行動は、「家事するなら学校行け」と弟には度々批判され、白けた目で見られることもあった。

あれから3年経ち20歳に成った今、同じような状況にああ私は何も成長していない何も変わらなかった何もよくならなかった消えたい死にたい誰か殺してくれもう嫌だ逃げたい戻りたい帰りたい泣き止みたい死ねない消えない誰にも殺されない逃げられない戻れない帰れない泣き止めない。こんなもので死ねないことはわかっているごっこ遊び以下だ。数時間たてば収まる、分かっている。苦しみたくて苦しんでいる、分かっている。細いタコ糸が食い込んで顔が熱くなり頭がぼうっとして涙が出る。しばらくすると首吊りタコ糸を切り、ハムのようになっているであろう首を隠してそそくさと風呂に入った。風呂から上がるとこのブログに登録して、記事を書こうとするうちに寝てしまった。これが昨日のことである。私は今まで悲しい時や人生の節目などにたまに日記を書いていたのだが、生憎ノートは紛失してしまっていて。なにかのはずみに捨てたか、捨てられてしまったのかもしれない。だがこれならば家族に見られるのを恐れなくても良いし、誤って捨ててしまうこともまぁないだろう。他人の日記を見ることができる。


現在、父親は仕事が大変なストレスなようで、家に帰ってくると、幼児退行したかのように夜には猫なで声で「今日はパパと一緒に寝てほしい」と言って甘えてくるようになった。学校に行かない私を朝から怒鳴りながら蹴っていた人物と同じなのだから人間には色々な側面があるなぁすごい。私を抱き枕のようにして眠る父親は「最近はしんどくないか」「今日は学校に行ったのか」「仕事が忙しい」「仕事が辛い」と話してくる。私はそれに「お父さんはがんばっている」「しんどいよねぇ仕事なんて辞めちゃいなよ」などと、自分が辛い時に言って欲しかった事を言う、私には一度も与えられなかった言葉だが、カウンセラー気分で励ましていた。たまに「この部屋でよく怒鳴ってたよね」「蹴ったこと、謝ってもらって良い?」「覚えてる?」などと詰るとバツが悪そうにさっさと寝てしまうので私のトラウマなど滑稽に思えた。

リビングから聞こえてくるごく普通の談笑の声とテレビの声が扉の向こうから聞こえてくる。今では部屋で暴れても怒鳴られないし、逆に全く物音がしなくても、ドアを開かないようにしていても、放っておかれている。食べたくなければご飯を食べなくてもいい。今は学校も休みで一日中家に居てもいい。だが両親は毎日働きに出ている。母親は仕事が終わっても家事をしている。弟は勉強をしてたまに手伝いをしたりする、家族と会話をする。私は寝るかネットで気分を紛らわすか昨日のように暴れるだけだ。何もしてなさ過ぎて最近の記憶がない。親がいない間に家事をすれば、掃除のひとつでもすればいいのにと思う。母親が仕事から帰るたびに何かやればよかったと思うが現状は頼まれたものでもできていないことがあるから救いようがない。

リビングと隣接したこの自分の部屋は、ドアが閉まっていてもよく音が聞こえる。父親からの怒鳴り説教の後の舌打ちや吐き捨てるような玄関先での「もうだめやこいつ」も、母親の「もしもし、先生ですか?はい、今日は学校を休ませて頂きます。もう殺します。」という電話風のつぶやきもよく聞こえていた。今では弟の「気にしてほしいだけやろ、構ちょや」という呆れた声くらいしか聞こえないが。

寒風が舞い込むぐちゃぐちゃな部屋で駄文を綴っているうちは百回首を括ったところで痣すらできまい。分かっている。どうせならいっそのことこのまま凍死でもできないものかと思うが、それもまた無理なことであろう。分かっている。